このたびは

 このたびは、東京前泊・後泊つきの、福島県への出張でした。郡山と会津若松へ。

 今回もクリスティを何冊か持参。 『ポアロのクリスマス』、『複数の時計』、『牧師館の殺人』を読みました。

 老年のポアロはしみじみと、マープル初登場の『牧師館』はドタバタコメディ的(もちろん一筋縄でない)なタッチがよかったです。

 飛行機の座席、業務の合間のスターバックス、そしてホテルの部屋で。読んでいた状況とセットで残ります。

 郡山では、会津若松に移動途中のさる皇族に行きあいました(恒例です)。あの方たちは、移動途中もにこにこと周囲の人の相手をしているのでしょうか。ただでさえ自由時間は少なそうですから、自分の好きな本でも読みながら移動できればと、余計なお世話ながら思った次第。

Peshu

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を、みゆ

 現代語で「みる」と「みえる」と「みせる」。古語では「みる」と「みゆ」と「みす」。それぞれに対応します。

 現代語では「みえる」を「みる」や「みせる」の意味で用いることはまずありませんが、古語では「みゆ」にも次のような用法があります。

 【み ゆ】 講談社学術文庫『古語辞典』による

  ・見られる(用例 ものおもふと人にはみえじ・・・ 万葉集)

  ・(意識的に)見られるようにする。見せる。(用例 あながちに〈カグヤ姫ヘノ〉こころざしをみえありく。 竹取物語)

 和歌の用例をみると、定家『拾遺愚草』に、

   よひよひは忘れてぬらむ夢にだになるとをみえよかよふたましひ 579

魂よ、せめて夢にだけでも(姿を)見せよ、というほどの意味でしょう。

こういう用例の多いのは、肖柏『春夢草』のようです。

  はなざかり散るてふことをみえそめしひともとつらき山桜かな 909
  いとふなよ花に山風さらでやは世にをしまるるほどをみえまし 918
  ことにいでて心よわさをみえつるやうら山吹のきぬぎぬのそら 1524
  かひぞなく夜な夜な胸にまがねふくおもひをみえばきびのなかやま 1619
  いまはただ人もわすれぬうきふしをみえおかざりしわれぞくるしき 1737

なお言うまでもなく、「みゆ」はヤ行に活用するので、「みへよ」とか「みへず」にはなりません、為念。

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クリスティキャンペーン

 移動時間も、待ち時間も、期間も長めの出張に、クリスティを何冊か持参し読みました。

 今回の収穫は『ホロー荘の殺人』(中村能三訳、ハヤカワ文庫)です。ポアロ全盛期の諸作に比べてあまり有名ではない(と思う)のですが、これはすてきな作品でした。

 人物がみな輪郭くきやかに性格づけられて、それがプロットにみごとに活かされています。

 また、353ページからの〈結末部〉も淡々と描かれながら、深く残りました。

 作中の人物の何人かの造型、それからいわゆる「トリック」の扱いなど、森博嗣さんの作法(さくほう)を連想しました。森さんの作品の愛読者なら、判ってもらえるでしょう。

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あたら

 「あたら」、漢字をあてると「可惜」。形容詞で「あたらし」。

 惜シムベシという訳で、惜しいという気持ちを表し、

   "際ことにかしこくて、ただ人には、いとあたらしけれど・・・"

      (光源氏は)際立って聡明で、(帝の子でありながら)一臣下の立場でいるのは、

      あまりに惜しいのですけれども・・・

というふうに用いられます。

 この語は「新(あらた)し」と語形が似ていることから、「あたらし」が"新しい"の意味も表すようになりました。

 和歌の語としても、「あたらし」は「新し」であることが多いようです。

   あたらしき年のはじめにかくしこそちとせをかねてたのしきを積め

                       『古今和歌集』大歌所御歌1069

 そのなかにあって面白いのは、藤原俊成・定家父子(御子左家)と、その主人筋にあたる慈圓・藤原良経、さらに家隆らが初句に「あたらし」を置く歌を皆詠んでいること。

   あたらしや露けき野辺にたつ鹿のうは毛にうつる萩が花ずり

                           藤原俊成『長秋詠草』545

   あたらしやえぞがちしまの春の花ながむる色もなくて散るらむ

                              慈圓『拾玉集』1344

   あたらしやかどたの稲葉吹く風に月かげちらす露のしらたま

                           藤原良経『秋篠月清集』73

   あたらしやまがきもしづむ夏草のしげみにまじるやまとなでしこ

                             藤原家隆『壬二集』431

   あたらしやしづが垣ねをかりそめにへだつばかりのやへのうのはな

                           藤原定家『拾遺愚草』217

これらはみな「可惜」で、パタンといえばパタンですが。どれも視覚に訴えて、美しいものが移ろう、また誰も目にとめないことを惜しむ気持ちです。

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ABC

 クリスティ『ABC殺人事件』を再読。

 みごとに覚えていませんでした。〈Bが本命〉と思っていましたが、それさえ間違ってました。

 創元推理文庫『ABC殺人事件』堀田善衛(衛は正字です)訳、1959年初版。読んだのは1986年第92版です。堀田『方丈記私記』善衛さんの訳、というのがうれしいですね。

 校正ミスと思われる箇所がひとつ。たとえば217頁に、

 「私の考えでは彼の脅迫観念はたいへん強くなっていて・・・・」という箇所があります。探偵小説のなかですから、〈キョウハク〉といえば確かに〈脅迫〉が出てきやすいと思いますが、ここは明らかに〈強迫観念〉でしょう。作中に3箇所くらい、初版から50年以上ですから、誰かが指摘しているはず。

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ひかりみねばや

   夕さればほたるよりけに燃ゆれどもひかり見ねばや人のつれなき

                           紀友則『古今和歌集』562

 「ひかり/み/ね/ば/や」の部分、〈ね〉は「ず」の已然形、〈ば〉は順接の確定条件、〈や〉は疑問の係助詞 と説明をされ、〈(心に秘めているので)光るのを見ないからであろうか、あの人はつれないことだよ〉というような意味になります。冷淡というよりも、気づかなくて無関心でいるという気味でしょうか。

 ほたるは、身を燃やす〈火〉 が 心の思〈ひ〉 との重層(掛詞)で、〈身を/心を焦がす〉という文脈でよく用いられ、その流れで「つれなし」を呼び込むこともよくあります。

   夕まぐれ風につれなき白露はしのぶにすがるほたるなりけり

                          惟明親王『玉葉和歌集』402

   かやり火のつれなきころの下もえを心よわくもゆくほたるかな

                       藤原家隆『新続古今和歌集』300

   ゆくほたるあくがれいづるたまならばつれなき袖の中にとどまれ

                               正徹『草根集』6980

正徹の歌は、和泉式部の有名な次の歌を本歌としています。

   ものおもへば沢のほたるもわがみよりあくがれ出づるたまかとぞみる

                        和泉式部『後拾遺和歌集』1162

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おどろかす

 暑くてぐったりしがちな夏の日中は、仕事中に(居眠りしている)人をおどろかすことが多くなります。

 「おどろかす」にはもちろん、〈びっくりさせる〉の意もありますが、古典では多く〈眠りをさます〉〈気づかせる〉という意味で用いられる動詞です。

 たとえば『源氏物語』「夕顔」の次の一節、源氏が失ってしまった夕顔の意識を懸命に取り戻させようとする場面。

    昔の物語などにこそかかる事は聞け、といとめづらかにむくつけけれど、

   まづこの人いかになりぬるぞと思ほす心騒ぎに、身の上も知られたまはず、

   添ひ臥して、ややとおどろかしたまへど、ただ冷えに冷え入りて、息はとく

   絶えはてにけり。

 和歌では、いろは歌に典型的に現れているように、〈夢の世〉の縁語としてよく用いられるます。

   はかなしとまさしく見つる夢の世をおどろかでぬる我は人かは  和泉式部続集 61

 一方で、西行のこんな歌も有名です。(両者「おどろく」ですが)

   うなゐこがすさみにならす麦笛のこゑにおどろく夏の昼臥し  聞書集 165

ちなみにこちらは「嵯峨にすみけるにたはぶれ歌とて人々詠みけるを」という詞書きの一連にあって、他には、

   むかしかないりこかけとかせしことよあこめの袖にたまだすきして 166
   たけむまをつゑにもけふはたのむかなわらはあそびを思ひ出でつつ 167
   我もさぞにはのいさごの土あそびさておひたてるみにこそありけれ 170

など、老いの身に子どものころを思い出している歌が並んでいます。

 仕事中に若い人を「おどろかす」ときは、これら源氏や和泉式部や西行が入り交じったような思いがしています。

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Trio

 広島県と境を接する邑南町という山間の町で、村上"Ponta"秀一さんのトリオのライヴを聴ききました。

 メンバがすばらしい。何しろ、ピアノが山下洋輔さんですから。学生時代、坂田明さん・小山彰太さんとのトリオは何度か聴きにいきましたが、何十年かぶりで、ふたたび(今のようなビッグネームになった)山下さんを生で聴く機会があるなんて思っていなかったので、感慨も一入です。

 ベースの坂井紅介さんももちろん。二人のヤンチャなジイさんを、うまく手のひらに載せてのびのびとプレイさせてあげているようでした。

 もともと、『風雲ジャズ帖』をはじめとする本の数々から、山下洋輔という存在を知り、そこからいわゆる〈ジャズ〉を聴き始めたので、はじめてのジャズがフリーフォーム。それから次第に時代を遡っていったというリスナにとっては、"あの"本たちの著者という崇拝に近い念もあるわけです。

 ほんとにすてきな一夜でした。

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象は

 先日の出張の宿で読んだ本の一冊が、クリスティの『象は忘れない』、原題は"Elephants can remember" です。

 英和辞典では、"Elephants never forget" という言い方が紹介されています。これが本来?の、〈象は忘れない〉ですね。

 クリスティの方はそれをふまえて、〈決して忘れることはない〉というよりも、曖昧で不正確で、思い込みによるものであっても、とにかく何か覚えている周辺の人々の〈回想の(中の)殺人〉を、ポアロと探偵作家のミセズ=オリヴァが探ってゆく姿を描いています。

 "never forget" と "can remember" のニュアンスの違いはたぶん、日本語で考えてもそう間違ってはいないでしょう。でも、日本語題名としては(ニュアンスは違うとしても)『象は忘れない』の方が、断然すばらしいと思います。

 恩田陸さんがエッセイで、クリスティの平明な文章の〈怖さ〉と、それを読ませる文章力について繰り返し書いていますが、そう思って読むと一文、一会話が沁みてきます。まだ未読のものが多くあるので、楽しみが増えました。

 自分の場合、

 『アクロイド殺害事件』 幸運

 『そして誰もいなくなった』 『オリエント急行殺人事件』 『カーテン』 不運

でした。もちろん、メインのトリックを事前に知らされていたかどうかということです。『アクロイド』は小学生の高学年のとき、はじめて文庫本で読んだ長編の推理小説ではなかったかと思います。子どもごころに、最後の数頁にあぜんとした覚えがあります。いわゆる「世界が逆転する」体験。

 ともあれ、『象は忘れない』では老境のポアロの、自己顕示を表にたてないさまが感慨を誘いました。

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厄年

 先日、出張で福岡県の宗像大社に行く用事がありました。

 往きは中国自動車道路から、九州自動車道路若宮インターチェンジ経由。帰りは古賀インタで九州自動車道路に乗りましたが、ちょうど「休日上限1000円」の最終日だけあってか、ただでさえ普段から車の多い古賀S.A.は、いっそうの混雑でした。本州に戻って下関インタを過ぎても、あまり車が減らないという。

 大社では、お祓いを促す「厄年」の一覧?が看板になっていました。「○○年生まれ 本厄」とかいうあれです。

 「本厄」「前厄」「後厄」のほかに、「天中殺」とか「暗剣殺」とかあるなかに、自分と同じ生まれ年の人は「八方塞」ということが判明。「八方塞」というのも、神社関係のタームだったんですね。

 これだけあれば、毎年何かに抵触しそうです。

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